東京地方裁判所 昭和55年(ワ)2812号 判決 1982年2月17日
原告
飛田人徳
被告
国
右代表者法務大臣
坂田道太
主文
本件訴を却下する。
訴訟費用は原告の負担とする。
理由
原告の提出にかかる本件訴状によれば、原告は「被告は、原告がその生前において原告の意識正常なる時において、文書により作成せる原告が死に臨み苦しまざる旨の意思表示及び無益な延命措置を拒否する旨の文書による意思表示の有効なることを確認する。」との裁判を求め、その請求の原因として別紙のとおりの記載がある。
原告が本件訴状において裁判を求めるような事実は、裁判所法三条一項の「一切の法律上の争訟」には該当せず、その他法律において右のような事実をもつて訴を提起し得ることを定めた規定もないので、本訴は、出訴の対象とはならない事項について裁判所の判断を求めるものであつて、訴の要件を欠く不適法な訴であり、その欠缺は補正することができないことが明らかであるから、民事訴訟法二〇二条により本件訴を却下し、訴訟費用の負担につき同法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(丹野益男)
〔請求の原因〕
一 日本国憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と、規定している。
二 この憲法にいう幸福追求権は、個人が人間としての幸福を目指す意欲のため、その幸福追求が国家権力によつて阻止されることのないように要求する権利であり、生存権的基本権と同様、国家権力の積極的な関与により、幸福追求が充されることを、要求する権利であると、考えるものである。
従つて、個人の幸福感を充すための、唯単なる、唯物観的、衣、食、住のみならず、精神的部門における心理的作用、換言すれば、快、不快、無苦痛、苦痛等の如き、心的作用も当然、その対象内であると考えるものである。
三 生と死は不確定なる偶然と不確定な必然であり、生も死も自己の経験の対象にはならない。経験の対象となるものは、唯、生と死との中間的存在であり、この中間的存在価値に対する法的保障が憲法第一三条と同法第二五条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」規定である。茲に、生に対する法的保障価値の結果としての生存権が発生すると考えるものである。
四 日本国憲法第二五条にいう「すべての生活部面」という用語も、唯単なる唯物的な、衣、食、住等の如き、国民生活の全部野程度の形而下学的意味に解すべきものではなく、前述の憲法第一三条の個人の幸福の追求権が、一切の権利発生の基本的根源である以上、この場合も、個人の生活に際して、生ずる、快、不快、無苦痛、苦痛等の如き、形而上学的心理作用も、当然その対象として考えらるべきものであると思うものである。
五 従つて、死そのものは生存権の対象とはならないが、死に至るまでは、生存権の対象内であり、問題は、この生存権の態様と限界とであるが、快、不快、無苦痛、苦痛等の精神状態に対する心的作用も、当然、生存権としての法的保護の対象として、認容さるべきものであり、当該意思表示の実現の際に、該意思表示が及ぼす作用そのものが、公共の福祉=公序良俗に、なんら反しないものと認められる限り、該意思表示を実現化するため、死に臨み苦しまざる方法としての権利と共に、死に方を選ぶ方法としての、権利の発生する法的根拠があると考えるものである。
六 よつて原告は生前において、原告の意識正常なる時において、文書により作成せる原告が死に臨み苦しまざる旨の意思表示及び無益な延命措置を拒否する旨の文書による意思表示の有効確認の申立に及ぶ次第である。